<芸能界への第一歩>


 

小さい頃から憧れてはいたけれど、私が本格的に俳優を志そうと思ったのは、小学校5年生の時。


芸能界に全く理解のない厳しい父に、「劇団ひまわりに入りたい!」と泣きながら頼み込み、

根負けした父が、成績が下がったらすぐにやめることを条件に許してくれました。


そして間もなくNHK教育テレビ『明るい仲間』(皆、小学校の道徳の授業で観てなかった?)に

マドンナ・マリちゃんとして1年間レギュラー出演し、デビューしました。


それからは、東芝、旭化成、キリンレモン等のCMや、火曜サスペンス劇場『目には目を』(NTV)、

ポーラテレビ小説『千春子』(TBS)、『鬼が来た 棟方志功伝』(テレビ朝日)、

『時をかける少女』(角川映画)等々に出演しました。
 


 

<岡谷章子の時代>


 
その後、高校受験で一時中断したものの、無事に都立小松川高校に入学した後、

今度はサンミュージックのオーディションを受けて合格し、改めて芸能活動を再開することになりました。

(学校も、私立 堀越高校芸能コースに転入)


サンミュージックでは、慣例に従って芸名を付けていただくことになりました。


事務所の先輩であった松田聖子さんや岡田有希子さんの名前も付けた占い師さんが選んだ私の芸名は

「岡谷章子」(おかやあきこ、と読みます)。


実はこの名前を初めてマネージャーから聞かされた時、

ショックで思わず涙があふれてきてしまいました。


「シブすぎるーっ!」と、当時16歳の私は思ってしまったのです。


(でも、その後マネージャーに「アイドルになるんじゃないんだから!」

と言われ、なるほど・・・とすっかり納得してしまったのですが・・・)


この時から3年余り、この名前と付き合うことになりました。


それからは、朝のテレビ小説『はね駒』(NHK)、『翼をください』(同)、

金曜女のドラマスペシャル『青き犠牲』(フジテレビ)、

土曜ワイド劇場『三陸海岸婚約旅行殺人事件』(?)、

『大都会25時』(テレビ朝日)、『板東英二の撮影隊がやってきた』(同)

等々のドラマに出演し、

岡田有希子さんや酒井法子ちゃんたちと一緒にラジオのDJをワイワイやったりしていました。

(ラジオ番組収録風景、その他、当時のグラビア)


また、事務所がら、歌を唄う機会にも恵まれ、高橋留美子さんのアニメビデオ、

るーみっくわーるど第3弾『笑う標的』という恐ーいアニメの主題歌『インパクト』を唄ったりもしていました。


ところが、そんなふうにがんばっていた19歳のある日、ショックな出来事が突然私を襲いました。
交通事故に遇い、大怪我をしてしまったのです。


勿論、芸能活動は出来なくなり、私の夢はそこで断たれてしまいました。
 


 

<不撓不屈の精神>

でも、いつまでも悔やんでウジウジしている訳にはいきません。

確かに、小さい時から芝居をやることしか考えていなかったので、

暫くはどんなに落ち込んだかは言うまでもありません。


だからと言って過去を振り返ってばかりいては何も始まらない。


証券会社のOLも経験したりしましたが、

これから自分が生きていく為には何か技術を身に付けなくては!と思い、

海外旅行が大好きなのに英語が全く話せなかったこともあり、

「一石二鳥だ!英語を身に付けよう」と、英語の専門学校に入学。


毎日勉強に励み、英検準1級に合格、TOEIC 840点を取得しました。


その間にも、形成外科手術を5回受け、怪我も随分よくなっていきました。


すると、治っていくにしたがって、私の中で押さえ込んでいた心の声も、

どんどん、どんどん大きくなっていったのです。


「本当にやりたいことはこんなことじゃない。このまま俳優になる夢を捨てちゃっていいの? 

長いブランクなんて気にすることじゃない。また1から勉強すればいいんだから!」


そして、文学座附属演劇研究所の門を叩いたのです。


舞台俳優としての、私の全く経験のなかった分野での新たな人生が始まりました!



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